香川県の中世(およそ1185~1603年頃)に製作された石材物は9割近くで凝灰岩が使用されている。凝灰岩以外には花崗岩、砂岩、結晶片岩が見られる。
凝灰岩は香川県では標高200m前後の少し高い所にある。そして現在のところ20ヶ所程度の石切場跡が発見されている。石造者研究にとってありがたいのは香川県の凝灰岩は地域によって見た目が違うということだ。
見た目で判別できる石材は香川県の東から火山石、長尾石、大串石、八栗石、三木石、豊島石、高松石、国分寺石、綾歌石、天霧石、三豊石の11種類に分類している。
この中で東かがわ市内に見られるのは火山石、長尾石、大串石、八栗石、豊島石、天霧石である。ただし大串石については火山石や八栗石と似ており明確に分けることが難しい。
火山石はさぬき市の津田町と大川町を分ける火山(ひやま)の中腹にある白色の疑灰岩である。通称は白粉石(しろこいし)という。上地図では黄色の場所に火山石は広がっている。
東かがわ市内の中世石造物の圧倒的多数は火山石製である。火山石は白色をした柔らかい凝灰岩で、細かく見ると白色の中に角ばった黒色のガラス質の小さな礫が入っている。
火山石の石材利用の歴史は古墳時代前期の古墳に採用された首長の刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)に遡り、飛鳥・奈良・平安時代は基壇などの建築材として使用され、平安時代後期には経塚の容器にも使用されている。そして、平安時代後期から供養塔の生産が本格化していく。
上図の赤く囲った場所が長尾石製石造物の主要分布地域である。長尾石はその分布からさぬき市造田或いは神前で採石されたと予測されるが、未だ石切場あと遺跡は発見されていない。
東かがわ市内では各地に散在して分布している。事例は少なく、特に分布が集中する地域はない。
石材は火山石と同じく白色をしているが火山石よりも硬い。香川県内の凝灰岩では最も硬い石材といえる。細かく見ると白い中にたくさんの穴が窪み状になっており、これが長尾石の最大の特徴である。
長尾石の石造物で最も有名なのはさぬき市長尾寺にある八面石幢である。
四国84番札所八栗寺付近の凝灰岩である。八栗寺の参道沿いには左の写真のように石切場跡が残されている。
また下の写真のように歓喜天の横の石壁には五輪塔が刻まれている。
石材は白色の凝灰岩で火山石よりもさらに軟質で軽い。石材には一部火山豆石という火山灰が球状に凝集したものが見られる(一番下の写真の矢印部分)。
東かがわ市内では事例は少ない。ただし、火山豆石の確認できないものは大串石や火山石と判別が困難なため、実際は現在認識している事例よりは多いと予測される。分布の実態としては長尾石製と似たような状況と思われる。
香川県西部の善通寺市、三豊市、多度津町の境にある天霧山とその西隣にある弥谷山で採石される凝灰岩である。戦国時代頃には香川県のみならず周辺の広い地域に石造物が流通した(上の地図)。
上の写真は高速道路から見える天霧山である。天霧山と弥谷山に石切場跡が点在している。
白色の凝灰岩が広がる香川県東部とは異なり天霧石はたくさんの小礫がかたまった石材で外見は灰色から黒色に見える。有名な天霧石製石造物には白峯寺十三重塔がある。
東かがわ市内は天霧石石造物の主要分布地域ではないが、なぜか東ほど分布密度は高い。引田地区が分布の中心地といえる。
豊島石は豊島をはじめとして上の地図に見られる場所でほぼ同質の石材が採れ石切場が残されている。
石材は天霧石によく似ており、たくさんの礫からなる。天霧石との違いは礫の大きさが均一で、黒く、また白色の礫である長石が目立つ点である。
豊島石は15世紀後半頃から見られ、17世紀前半になると各地で豊島石製石造物が主体となっていく。
凝灰岩以外の石材
砂岩は花崗岩が風化した砂がかたまった石である。砂岩は和泉層群に見られる。和泉層群は中央構造線の北側にそって細長く見られる(左の地図の黄土色の部分)。
東かがわ市内でも南部地域で砂岩を採石することが可能である。
砂岩製石造物の特徴は大阪の和泉地方の石造物と共通点が多いことが挙げられる。香川県内では本島などの島嶼部を除いてほぼ東かがわ市内に集中して分布が見られる。
ただし、東かがわ市内においても多くは見られず点在している状況にある。また、砂岩製石造物が造立されるのは16世紀に入ってからである。
マグマがマグマだまりの中でゆっくりと冷えて固まった深成岩である。
花崗岩はピンク色がかかったカリ長石、白い斜長石、黒い黒雲母、灰色に見える石英からなる。
東かがわ市内の中世石造物の花崗岩製は兵庫県六甲山の花崗岩である御影石製である(写真左)。御影石はカリ長石のピンク色が目立つ。香川県内では小豆島を除き室町時代以降に見られ、また、分布は香川県東部の沿岸部に広がっている。
下から方形の地輪、球形の水輪、三角の火輪、半球形の風輪、団形の空輪の五輪が組み合っている。風輪と空輪は一石で作られることが多い。
平安時代に密教系の塔として出現するがその後は宗派を越えて大流行する。中世石造物で最も多く製作されたのが五輪塔である。
上写真は空風輪である。火山石製の空風輪は空輪の下の方が広がる形をしている。
火輪は軒の下端部が反るものから直線的なものに変遷していく。(赤線が軒反り)
五輪塔を1石で製作したものを一石五輪塔という。火山石製五輪塔には一石五輪塔は極めて少なく、東かがわ市内にある大多数は砂岩製一石五輪塔で、外に花崗岩製(御影石製)と豊島石製が若干見られる。
一石五輪塔は16世紀に入ってから見られるようになる。また、砂岩製一石五輪塔は非在地的な形で大阪府の和泉地域の砂岩製一石五輪塔からの系譜が窺える。
東かがわ市内では一石五輪塔は極めて少ないが、これは香川県全体で指摘できる傾向である。また、砂岩製の事例はそのほとんどが東かがわ市内に所在しており、17世紀以降は特に旧引田町内で分布の密度が濃い。
砂岩製石造物は一石五輪塔の外に組み合わせの五輪塔も点在する。写真左下は引田川股の川西墓地にある。年号は見られないが、完存しており貴重である。16世紀末の製作と考えられる。写真右下は白鳥伊座の森権平の墓塔と伝える五輪塔である。地輪に天正12年(1584)の紀年銘が見られる。形態的に17世紀前後が想定され時期は矛盾しない。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると形を大きく変化させ独特の形状となる。これを豊島型五輪塔と呼んでいる。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通を開始し、一方で中世以来の在来の石造物は終焉する。東かがわ市内も中世以来火山石製石造物が主体を担っていたが17世紀前半に主体の座を豊島石製石造物に譲り終焉してしまう。17世紀前半は豊島石製を中心として若干の砂岩製が見られる。しかし、後半になると花崗岩製の墓標が造立を開始し豊島石製も主役の座を譲ることとなる。豊島型五輪塔はその後、少数ながら18世紀後半頃まで事例が確認できる。
五輪塔に次いで多く製作された中世石造物である。名称の由来は「宝篋印心咒経」を納めることから出たが、必ずしも上記の経が納められているわけではない。
笠部の段形(だんけい)と隅飾(すみかざり)、方形の塔身、頂上の相輪(そうりん)等が形の特徴である。
東かがわ市内では火山石製が圧倒的多数を占め、15世紀の室町時代以降に兵庫県六甲山の御影石製の搬入がわずかばかり見られる。
火山石製で最古は与田寺の鎌倉時代の事例が指摘でき、15世紀以降は小型化と形の簡略化が見られ、16世紀後半まで確認できる。
基礎、塔身、笠部、相輪からなる。塔身は平面が円形で首部(矢印の部分)を作り出すのが特徴である。
五輪塔、宝篋印塔に較べて数が少ない。東かがわ市内でも同様で完存する事例は皆無である。
塔身には種子を表現するもの(写真左)、石仏の像容を刻むもの、なにも刻まないものなど様々あるが、なにも刻まないものが一般的である。
水主神社では本堂横に宝塔の塔身と基礎が見られる。下には石がたくさんあり、塚或いは経塚の可能性が推測される。
笠部を三重、五重、七重、九重、十三重に重ねたものである。東かがわ市内には事例が少なく、しかも鎌倉時代の事例のみである。現在、馬篠聖皇院(写真左)と西村の西村天満宮南(写真右)の2ヶ所のみで確認されている。いずれも火山石製である。西村天満宮南の事例は初重軸部と最上笠部のみに残されており、初重軸部には金剛界の四仏種子が刻まれている(矢印の部分)。
キリークと書かれている。これは阿弥陀如来を表す。種子は写真左のように鎌倉時代は薬研彫で書かれているが室町時代になると細い軸になる。薬研彫とは彫の部分の断面がV字になった力強い彫り方である。名称は薬を粉にする薬研の形に由来する。
細長い部分を幢身という。幢身は八角形或いは六角形になる。そして、六角形の各面に地蔵を彫刻したものを六地蔵石幢と呼ぶ。(写真右)。
石幢に似ているが、細長い部分が4面になるものを特に笠塔婆とよんでいる。東かがわ市内では馬篠地域に事例が多く、塔身部には石仏が彫刻された事例が多い。
五輪塔、宝篋印塔に次いで東かがわ市内では多く見られる。
頭が円頂の地蔵菩薩が圧倒的に多いが、一部阿弥陀如来や薬師如来などの如来像もある。
鎌倉時代から確認できるが、16世紀頃になると爆発的に流行する。
多くは火山石製で、近世石仏とは異なる抽象的なモチーフが特徴である。
抽象的なモチーフの15世紀後半~16世紀の火山石製石仏
両手を腕前で合掌した円頂の地蔵菩薩坐像が最も事例が多い。法衣の表現があるものから、突帯で表現したものまで数種類に分類できる。右端の石仏は足を☓で表現するなど抽象化が進行している。
馬篠の阿弥陀さんの男神坐像と袖掛神社の女神坐像が火山石製石造物唯一の神像である。両神像は互いに違う場所に位置し、法量も類似することから深い関わりが推測される。袖掛神社は百襲姫の伝承の場であるが、百襲姫を祀っているのが水主神社であり、水主神社には8体の平安時代の木彫の神像があり関連性が推測される。
名称の由来は伽藍(がらん)の塔とする説、墓地を示すラントウバにあるとする説があるが定説はない。漢字では蘭塔、藍塔、卵塔、乱塔と様々な時が当てられている。
墓石の一種で17世紀に盛行し、18世紀以降は墓標の普及に反比例して減少する。龕部は観音扉が見られ、正面の両軸部に被供養者の没年月日が刻まれる。龕部の奥は五輪塔や墓標が彫刻されることが多い。
神社の正面にある門。中世段階の鳥居は全国的に少なく香川県内においても土庄町豊島の1474年に造立された家浦八幡神社が唯一の中世鳥居の事例である。東かがわ市内では最古の事例は17世紀後半で紀年銘はないが、上写真の引田誉田八幡神社鳥居の笠木や水主神社鳥居残欠が最古期の製品と思われる。
井戸上端部の井筒に火山石が使用されている事例が中筋の増吽の産湯に用いたとされる井戸にある。